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2003.3.13 所属カテゴリ: 南アルプス / 登山 / 登山史年表 /

南アルプス登山史年表〈明治・大正期〉

出来事
1871
(明治4)
芦安の名取直衛が市川郡役所の許可を得て、北岳に甲斐ケ根神社を設け登山道を開く。許可を得たのは明治2年。しかし登る人は少なく、まもなく廃道となった。75(明治8)年にはマサモリ・ベンキチが、北岳に登山道を開いたといわれる。
1878
(明治11)
国による初めての森林調査がスタート。山梨が最初の調査地となり、「甲斐には4つの帯あり」とする報告をまとめる。垂直分布の考えを初めて導入した。
1881
(明治14)
7月14日から8月21日、アーネスト・サトウが大がかりな登山旅行。金峰山、三ツ頭、権現岳、白河内、農鳥岳、間ノ岳に登る。
高橋敬十郎ら長野・戸台から甲斐駒ケ岳。
1882
(明治15)
横山又次郎、山下伝吉、中島謙造らがナウマンの指導を受け、地質調査のため長野・戸台から入って野呂川を下り奈良田へ。さらに転付峠を越えて大井川に下り、西俣を遡行、長野の大河原に抜ける。
1884
(明治17)
横山又次郎、中島謙造らが御座石から鳳凰山に登り、野呂川に下ってさらに大井川から赤石岳へ。千頭に下る。
甲斐駒ケ岳5合目に修験行者の植松嘉衛が小屋を開設。大正の初めに古屋亀太郎が譲り受け、その子義成(1999年没)が守った。
1886
(明治19)
秋、伊奈街道が完成。中富町切石と長野・飯田を結ぶもので、全長80キロに及んだ。特に早川の新倉から転付峠―大井川―二軒小屋―三伏峠―長野・大河原間は数年間の難工事の末に開通した。山間部の道幅は60センチほどだったという。山梨側だけで1万人が工事にかかわった道も明治30年代には荒廃した。今は一部が登山道として残っている。
1887
(明治20)
地蔵ケ岳に「明治20年7月29日」の日付が入った石碑。
1889
(明治22)
9月、北岳に石碑が建てられた。奉納者は「上宮地横内安太郎」。
1892
(明治25)
8月1日から25日、ウエストンが南アルプスへ。赤石岳に外国人初登頂。
1895
(明治28)
8月、木暮理太郎が甲斐駒、金峰山。
1900
(明治33)
8月、若尾逸平、加藤知事らが野呂川の水源探検。野呂川疎水工事のため水源を探査。
1902
(明治35)
8月18日から27日、ウエストンが芦安―杖立峠―広河原―大樺沢―小太郎尾根のルートで北岳。
1903
(明治36)
7月24日、武田久吉らが夏沢峠から赤岳。続けて台ケ原から甲斐駒。八ケ岳でヒナリンドウ、タカネシダを発見した。
8月、ウエストンが芦安、奈良田、さらに台ケ原から黒戸尾根を経て甲斐駒。鋸岳も目指したが途中で引き返す。
1904
(明治37)
7月12日から26日、ウエストンが芦安から鳳凰山―広河原―北岳―仙丈ケ岳―戸台の長期山行。15日には有名な地蔵仏初登はん。仙丈ケ岳も外国人初登頂。
8月、山梨師範の能勢教諭らが北岳登山の同行者を募集。
1905
(明治38)
7月、小島烏水、山崎小三ら小渋川から赤石岳。
8月13日から伊達九郎、高松誠ら芦安―夜叉神―鮎差―広河原―大樺沢―北岳―五葉尾根―芦安。
10月14日、小島烏水、高頭式、武田久吉、城数馬、河田黙らが日本山岳会設立。
1906
(明治39)
8月、辻本満丸が鳳凰山。さらに小荒間から権現岳。続けて甲斐駒へ。この時、鳳凰山でホウオウシャジンを発見。
8月15日から19日、山梨師範教諭の石塚末吉ら芦安―杖立峠―五葉尾根―広河原―大樺池を経て北岳を目指したが悪天で断念した。同行者の望月無腸が山梨日日新聞に「白根探検記」と題して30日から9月4日まで連載。
8月から9月、荻野音松が長期山行。22日に川浦を出て京ノ沢から奥千丈、金峰山に登り、甲府に下って早川へ。下湯島から新沢峠を越えて大井川に下り、小西俣を経て三伏峠に登り大河原へ抜ける。この時、「悪沢岳」の存在が世に出る。
1907
(明治40)
7月23日から武田久吉、河田黙ら高遠―戸台―赤河原―北沢峠―甲斐駒ケ岳―台ケ原。
8月7日から、石塚末吉らが大門沢から白根三山を初縦走、広河原から鳳凰山に登り返し芦安に下る。
1908
(明治41)
7月19日から、小島烏水、高頭式ら西山―白剥山―大井川―東俣―農鳥岳―間ノ岳―北岳―鳳凰山―青木鉱泉の大縦走。
1909
(明治42)
7月21日から20日間、小島烏水、高頭式ら西山―蜻蛉尾根―新沢峠―大井川―西俣―悪沢岳―赤石岳―小渋を歩き2年連続の南ア大縦走。
7月25日から、野尻正英(抱影=甲府中教諭)が芦安―夜叉神峠―杖立峠―五葉尾根―広河原を経て北岳に登る。
1910
(明治43)
8月25日、北岳山頂に「山梨子県巡査・大谷与而吉、小笠原警察分署山梨子県警部・小林夏吉、林野局技手・小野信」と書き込んだシラベの皮があった。日付は同日。1カ月後に登った鵜殿正雄の記録に出てくる。
9月、鵜殿正雄が戸台―赤河原を経て仙丈ケ岳に登り、大仙丈沢を下って野呂川へ。さらに北岳山頂に立ち広河原―五葉尾根―杖立峠を経由して鳳凰山に登る。
秋、甲府中の大島隣三、内藤安城が鳳凰山地蔵仏に立つ。ウエストンに次ぐ第2登、日本人初登を達成した。
小島烏水が出版の「日本南アルプス」第1巻で、北岳の大岩壁に「バットレス」の呼称。
1911
(明治44)
7月18日から、星忠芳と案内人の水石春吉が鋸岳第2高点に初めて立つ。辻本満丸とともに台ケ原から入山。日向山―鞍掛山―八丁尾根―烏帽子岳のルートで山頂を目指した。辻本は体調を崩して断念し、星と水石が登頂した。
8月、野尻正英と甲府中学の生徒2人が間ノ岳、北岳。
12月1日、中村清太郎が笊ケ岳。11月30日に硯島から入山し山頂に立った。南アルプスの積雪期初の記録。
小島烏水が甲斐駒―仙丈ケ岳―荒川岳。
1912
(明治45)
7月、小島烏水、岡野金次郎、水石春吉が鋸岳第1高点に初登頂。台ケ原から甲斐駒を経て第1高点へ。この後、仙丈ケ岳―洞ノ岳―荒川岳―市之瀬。
1913
(大正2)
鵜殿正雄が鋸岳へ。
小島栄が鳳凰山、白峰へ。
夏、日川中の糸賀喜久太郎、佐々木、田中教諭、甲府商業の小沢教諭ら北岳。
11月23日、山梨山岳会発会式を甲府商業会議所で開く。佐々木吉、糸賀喜久太郎ら5人を幹事に選出した。会則など協議。
1914
(大正3)
7月5日、山梨山岳会が甲府で山岳講演会を開き、小島烏水らが講演した。小島の演題は「日本アルプスの研究と甲州山岳」。
冠松次郎が広河原から白峰へ。
1916
(大正5)
7月16日、海軍軍属落合道徳が南アルプス横断を目指して、単独で釜無川沿いに入山したが行方を絶つ。大正7年8月、仙丈ケ岳薮沢源頭で白骨で見つかった。
1917
(大正6)
4月、舟田三郎が単独で夜叉神―荒川から北岳。ガイドレスのはしり。
7月末、県土木課の神崎政孝、正行兄弟が御座石鉱山跡を視察後、鳳凰山に登山。下山中にドンドコ沢の白糸―精進ケ滝間で兄政孝が転落死。
10月、カナダ人H・ドーントが地蔵仏へ外国人第2登。
甲斐駒ケ岳7合目に山小屋が開設される。
1918
(大正7)
7、8月、武田久吉、木暮理太郎が大樺沢―北岳―間ノ岳―農鳥岳―広河内岳―大井川―蝙蝠岳―荒川岳―仙丈ケ岳―甲斐駒ケ岳―柳沢の大縦走。
夏、青木村が登山者増加に対応して鳳凰山の登山道を修繕。
日本の女性登山の草分け青木美代が野呂川から小太郎尾根。
1919
(大正8)
平賀文男が鳳凰山ドンドコ沢の滝に「五色の滝」と命名。
青木美代、仙丈ケ岳から北岳。
1922
(大正11)
7月14日、甲斐駒に東大4、早大4、明大1、高等商業1、諏訪の青年24人が大挙登山。
7月20日、山梨師範山岳部30人が甲斐駒目指して入山。
7月20日から26日、朝香宮が南アルプス登山。19日入峡。総勢50人が足馴峠から西山に入り、大門沢旧道―農鳥岳―間ノ岳―北岳―仙丈ケ岳―甲斐駒ケ岳を縦走した。
1923
(大正12)
7月、県土木課員らが砂防調査のため大武川二の沢―離山のルートで鳳凰山へ。
11月23日から25日、城南山岳会員で海軍省勤務の大塚弘一、田中信夫が風雪のため鳳凰山で遭難、大塚が凍死。南アルプス積雪期初の犠牲者。
1924
(大正13)
5月、甲府の大沢伊三郎ら赤石岳へ。記録映画を製作する。
6月11日、県内の山岳会を統合して甲斐山岳会を結成。初の全県組織。会長若尾金造、副会長石塚末吉。
6月27日、白鳳会設立。韮崎小で結成総会を開き幹事長に小屋忠子、常任幹事に大柴陳策ら。登山の宣伝印刷物配布、駅前に登山案内所設置、登山用天幕購入などの活動方針を決める。「白鳳」は白根山と鳳凰山。
7月12、13日、白鳳会が創立第1回山行。17人が鳳凰山登山。北御室に野宿。
7月、渡辺俊則、吉川秀雄が赤石岳―荒川岳―塩見岳―大井川東俣―白根三山―長野・市之瀬。この登山記録に「北岳で山梨師範の一行と会った」の記述。2人はガイドレス。
7月21日、大月桂月が農鳥岳登山。この時「酒のみて高根の上に吐く息は散りて下界の霧となるらん」の歌を詠んだ。東農鳥に歌碑がある。
8月1、2日、清光寺住職高橋竹迷、韮崎中校長堀内文吉ら鳳凰山。ドンドコ沢から登り、三山を縦走、中道を下る。
10月、京都三高の今西錦司、西堀栄三郎、四手井綱彦ら甲斐駒ケ岳。この時、北沢に山小屋があることを知り、冬の白根の計画を立てた。
11月中旬、鳳凰山の北御室小屋が完成。この年までに県山林課が建てた山小屋は北沢、両俣、間ノ岳、広河内沢、広河原、早川尾根、八ケ岳、破風、北御室の9つ。
1925
(大正14)
3月、三高の西堀栄三郎、桑原武夫ら仙丈ケ岳(19日)、間ノ岳、北岳(22日)の積雪期初登頂。
3月28日、平賀文男が大樺沢から北岳登頂。三高に対抗して初登頂を競ったが6日遅れた。水石春吉が同行。帰りを甲斐駒に取り、積雪期甲斐駒初登。
7月2日から5日、白鳳会が韮崎から北岳への最短ルートとして高嶺の西から広河原に至るコースを開設。鞍部を白鳳峠と命名する。スポンサーの「サロメチール」の名入りのブリキ製案内板400枚を峠周辺や南ア北部に設置。
1926
(大正15)
1月、野村実ら戸台―赤河原―仙丈ケ岳―仙水峠―甲斐駒ケ岳。
4月、一高パーティーが塩見岳―仙丈ケ岳―白根三山。
6月3日、甲府49連隊の町田等少尉が3回目の鳳凰山登山。町田は県内山岳を満州に想定した雪中訓練を試みていたといわれる。
6月6日、甲府中学生20人、13日は同中学生50人、山梨高等工業生6人、甲府高女生10余人が甘利山へ。
7月、東海銀行員牛奥富昌、間ノ岳で遭難、死亡。10日に入山、遭難は16日か。
7月12日、北大教授アーノルド・グルリー(スイス人)が韮崎から南アルプス縦走に出発。白鳳会に通訳の依頼があり、土橋重左衛門が同行。
7月下旬、甲斐山岳会が募集したアルプス登山斑に全国から多数の申し込み。鋸岳―甲斐駒、甲斐駒、鳳凰、八ケ岳などのコースで、22日に鋸岳―甲斐駒斑が野々垣リーダーで出発。
7月30日、山梨県技手、佐藤光造、渡辺正敏が白根山登山小屋修理に登山。
8月、横内斉が地蔵ケ岳でミヤマハナワラビを発見。
8月、黒田正夫・初子が白根三山。
8月、加藤文太郎が戸台―仙丈ケ岳―甲斐駒ケ岳―台ケ原―八ケ岳―浅間山。
12月、国分貫一が白根三山。黒田初子が鳳凰山―仙丈ケ岳―北岳―塩見岳。
黒田初子が鳳凰山―仙丈ケ岳―北岳―塩見岳。