【連載】「甲斐駒開山200年 信仰と暮らし」<3>
アルピニズムの浸透 難ルート開拓、小屋整備
「日本アルプスで一番奇麗な頂上は、と聞かれても、やはり私は甲斐駒ケ岳をあげよう」。作家で登山家の深田久弥は著書「日本百名山」でこう賛辞を贈っている。1900年代に入ると、その山容に引きつけられたクライマーが「より高く、より困難な登山」を求めて次々とルートを開拓した。
岩壁や沢
信仰登山が盛んだった1800年代は、開山ルートの黒戸尾根のほか、長野県側からも登拝道が開かれた。登山そのものを目的とした欧州の精神「アルピニズム」が浸透すると、各地の山岳会や大学山岳部が技術や体力を競い、岩壁や沢を対象にした厳しいルートに挑んだ。
その中で、甲斐駒ケ岳の登山史に名を残すのが、東京都を拠点とした「東京白稜会」だ。1940年代後半から頂上東面の赤石沢や黄蓮谷などから岩壁を登攀する困難なルートを開拓。厳冬期のクライミングにも力を入れた。県内では30年に結成された「南嶺会」が33年12月、冬季では初の黒戸尾根から頂上の往復に成功し、存在感を示した。
一方、一般の登山者も増え、登山道や山小屋の整備に注力する団体も出てきた。菅原村(現北杜市白州町白須・台ケ原)の村長や初代白州町長を務めた古屋五郎は47年、村民による「菅原山岳会」を設立。黒戸尾根や早川尾根の山小屋を整備し、登山道は木を切り、石をどけて歩きやすくした。費用は古屋が私財を投じて賄った。
目的の一つに南アルプスの国立公園指定があった。古屋の誘いで19歳で入会した井上誠次さん(84)=同市白州町白須=は「五郎さんのリーダーシップの下、多くの人が登れ、自然と親しめる国立公園の指定を目指した。苦しかったが、楽しい思い出もたくさんある」と振り返る。
国立公園
活動の成果もあり、南アルプスは景観や甲斐駒ケ岳の花こう岩地形などが評価され、64年に国立公園になった。
また「南アルプススーパー林道」の建設は登山者の流れを大きく変えた。南アルプス市と長野県伊那市を結ぶ総延長約56・98キロ、総工費48億9100万円のビッグプロジェクトで、自然保護を訴える反対運動による工事中断を経て、着工から13年後の80年に全線開通した。
標高2千メートルを超える北沢峠までバスが入り、甲斐駒ケ岳は多くの人を受け入れるようになった。一方で黒戸尾根など厳しいルートに挑む登山者は減っていった。
南嶺会会員で、県山岳連盟の高室陽二郎名誉会長はこう話す。「多くの人が南アルプスに触れ、自然を楽しむ機会が増えたのは良いこと。ただ黒戸尾根のように長大で、信仰の歴史が漂う登山道はそうはない。甲斐駒の本当の価値はこのルートにある」
2016年8月12日付 山梨日日新聞掲載