【連載】「甲斐駒開山200年 信仰と暮らし」<1>
「万古不踏」開いた修験者 飢餓と闘い絶壁に挑む
1816(文化13)年の旧暦6月、1人の修験者が甲斐駒ケ岳の山頂に立った。飢えに耐え、日本三大急登に数えられる黒戸尾根を登り、「万古不踏」と言われた山を開いた。山頂には国造りや農業の神大己貴命(大国主命)を祭った。
厳しい入山規制
修験者は鐇弘法印。信州諏訪郡上古田村(現長野県茅野市)の出身で、俗名は小尾権三郎。開山を志し、18歳で麓の横手村(現北杜市白州町横手)を訪れてから3年余りがたっていた。
古来「仙人が集い、俗世の者は入山が許されない」とされた山は入山規制が厳しく、権三郎は最初に役所から取り締まりを任されていた山田家を訪れた。長野県波田村(現松本市)の修験者がまとめた「甲斐駒ケ嶽開山御由来記」(1963年)は、入山を申し入れる権三郎の言葉を「各地を巡り歩いて修行し、念願だった開山を果たすためにこの地を訪れた」と伝える。
願いはかなわず、権三郎は修行に励む傍ら、山田家にたびたび通って入山の許可を待った。1816年の旧暦3月、山田家当主の孫四郎久儀は法力や呪力、託宣(神のお告げ)を聞く力を認め、許可したとされる。
「木を渡って岩をよじ登り、身の毛もよだつ絶壁を伝い、岩下に伏し、飢餓と戦い、辛苦を重ね、神や仏の加護で頂上を極めた」。「駒嶽開山威力不動尊御由来記」(小林千代丸著、1931年)は、開山の苦労をこう記す。
「甲斐駒開山」著者の宮崎吉宏さん(69)=甲斐市竜地=も、開山時について「明確に示す資料はないが、登路の選定や岩場の登攀など苦難の連続だったと想像できる。山田家の手厚いサポートもあったのではないか」と推測する。
遺品10点を展示
北杜市長坂町中丸の同市郷土資料館は、24歳の若さで亡くなった権三郎の遺品10点を展示する企画展(10月16日まで)を開いている。山田家に権三郎の家族から贈られた神仏の名前や人名が書かれた「御山掟書」、祈祷に用いる金銅製の法具「鈷杵」、開山後に山田家に残した錫杖の頭などが並ぶ。
このうち巻物には「お山について何があっても他言してはならない。破れば山の神はもちろん、日本国中の神の神罰が下るであろう」とある。権三郎の死後、孫四郎久儀の次男嘉三郎が1824(文政7)年、権三郎を開祖として開いた「駒ケ嶽講」の教えにこの考えは受け継がれた。
同館の定森裕太郎学芸員(28)は「資料から駒ケ嶽講の性質や開山までの経緯を知ることができる。開山200年の節目に多くの人に目を向けてもらいたい」と話す。
甲斐駒ケ岳は開山から200年を迎えた。「駒ケ嶽講」の繁栄による信仰登山でにぎわい、現在も急峻で、美しい山容が多くの人を引きつける。古来「神の山」としてあがめられてきた名峰の歴史をたどる。
【ズーム】甲斐駒ケ岳 南アルプス山系の北端で山梨、長野の県境にある。標高2967メートル。1816(文化13)年に鐇弘法印(俗名・小尾権三郎)が開山した。花こう岩の白い岩肌が特徴で、ピラミッド形の急峻な山容を成し、その容姿から山岳信仰の対象になったとされる。開山ルートと伝わる「黒戸尾根」は日本三大急登の一つに数えられ、山頂と麓の駒ケ岳神社との標高差は約2200メートルある。